神保町ベジタリアン後日談   けいとうい外伝

 

ベジタリアンパート2

白山通り神保町交差点水道橋寄り

写真右方向が水道橋駅

68年当時の店とは白山通りをはさんで反対側となる。

1968-1969年経済学部封鎖の期間、夜中に縄梯子を降りバリケードの校舎からさまよい出た経闘委の学生たちは、右翼の襲撃を恐れ10人前後の集団で行動した。

目的は神保町交差点近くにあったベジタリアンという深夜営業のレストランだった。

この店は名前のとおり、当時はまだ珍しいベジ系のレストランで、肉料理は出さないところだった。

主にボールいっぱいに盛られた野菜サラダをひたすら食い、コーヒー、ジュースなどを飲みながら開放的な談笑をしたものだ。

特に、経・法校舎奪還後の、1968年9月以後の第2次バリケードでは、1968年6月からの第1次バリケードの時代に存在した学生自身による自主運営・自主料理の食対による食堂も無かったから、学生たちは食いつなぐのに大変苦労したものだ。

ある者は食料品の店でインスタントラーメンを1ダンボール買ってきて仲間と分け合い、毎日・毎食食べていた者もあった。

ある者は、小型の電気コンロを持ち込み、簡単な物を調理したり、お湯を沸かしてコーヒーやらお茶やらを飲んでいるものもあった。

ただし、バリケード内では全員の申し合わせにより禁酒となっていたので、酒を持ち込むことは無かった。

何しろ経闘委はまじめな者が多かったから、筆者が当時校舎内を見渡したところ、酒を校舎内で飲んでいるものは一人もいなかった。

外で酒を飲んだものは酔いのさめるまで外で過ごし、朝方帰って来た。

たまに酒を飲んだものが酔って帰り、校舎の裏口を叩いて騒ぎ、裏口警備の学生ともめるトラブルもあるにはあったが、禁酒はかなり厳格に守られていた。

(当時はこういう細かい事も、執行部に情報としてもたらされていた。その情報のすべては秋田議長はじめ、執行部の面々に逐一伝達され、すべての情報が共有されていた。 今考えれば、バリケードの期間中は、経闘委は見事に統制が取れていた体制にあった。)

それというのも、この巨大な経済学部の校舎を(1号館と2号館の二つの巨大校舎)をバリ封して学生自身で防衛するという事に、学生たちは真剣だったからだ。

「一歩間違えればバリケードは破壊される!! そして敵が・・・・・それはいつであるのか、わからない。」 という瀬戸際の緊張感が、規律を守らせていたのだった。

いわゆる自主管理の厳しさを学生一人ひとりがこのとき、味わっていたに違いない。

そういった緊張下での、ベジタリアンでの時間は、学生たちの緊張からの解放の時間だったのは間違いない。

 

さて、時は流れて、2012年3月23日そのベジタリアンが閉店する事になった、と言う。

最終日にOB4人で行った。

マスターの和田さんに話を聞くと、1960年代は白山通りの向かい側にあって、その後諸事情でこの場所に移転したという。

68年当時は現在のマスターの奥さん(2011年逝去されたという。)が主にやっていて、日大全共闘の学生たちが来ていたのは覚えているという。

「ああ、秋田明大ね、よく来ていたね。覚えてるよ。」

店内は混みあっていた。

ひとしきり飲み食いして引き上げる。

以上、昔お世話になったベジタリアンの報告でした。

 

 

ベジタリアンパート2店内

中央こちら向きがマスター和田さん

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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