日大闘争by日大全共闘 日大全共斗経斗委HP
日大闘争ドキュメント
前史1958-1965
はじめに
読者のみなさまにお願い。
稿が進むにつれ、当時の資料・写真などが徐々に出てまいります。
その中でご都合の悪いものや伏せておきたいことなどがございましたら,
BBS掲示板あるいはホームページの下欄のアドレスへメールでお知らせください。
直ちに当該部分の訂正を行います。
なお、これらの訂正は、このホームページの性格上、
何の政治性も方向性もなく行いますのでご了承ください。
<このホームページの読み方>
@正楷書体(HG正楷書体)の部分は、当時の資料の原文です。
A大文字(MSゴシック)は本文です。黒小文字も同様、本文
B赤字は、注釈・解説等の加筆部分です。
C茶色文字は、あとからの追加加筆です。
D当事者の証言は、できるだけ正確にそのまま載せるよう心がけていますので、
意味不明や前後の脈絡がはっきりしない場合があります。
日大経済学部旧校舎写真(日本大学の90年より転載) 経済学部近影 2003年現在
●経斗委って何?
むかし日大斗争がありました。1968年から1971年頃までの話です。
「経斗委」とは…(ちょっと長いのですが),正式名称を
日本大学全学共闘会議
「経済学部闘争委員会」
「短期大学部闘争委員会」
「二部経商短闘争委員会」
と言いました。
その総称が経斗委です。
け
い と う い
でもこの連載では、1968年に決起した華々しい日大全共斗の栄光の歴史
からではなく、そのずっと前から続けられていた地道な学生たちの
埋もれた数々の斗い、多数の犠牲者を生み出した長い長い前史
の時から書き始めたいと思います。
そんなに格好のいいもんではありません。
栄光の全共斗をご期待の方は、今すぐこのペ一ジを閉じて、
映画「日大闘争の記録」をご覧下さい。
ビデオもあります。
1968−69の日大斗争の華々しい栄光の日大全共斗は私たち自身ではありましたが
私たちの全てではありません。
過ぐる30数年にさかのぼる過去に目を向けつつある、
わが日本大学の後輩学生たちに
そして、今まさに学内矛盾に悩み、
それに立ち向かおうとしている、
日本大学の学内各位に捧げるものである。
日大闘争年表 「日大闘争史をつくる会」 から転載
1958年(昭和33年09. 古田会頭、改善案を出す
10.23 商経学部二部自治会学生大会で、勤務評定反対闘争に参加した自治委員の不当処分撤回と、日大改善案・警職法改正案反対で24・25の両日スト決行を決議
10.24 授業放棄全学スト、ピケットを張り学内デモ
10.25 学校当局は臨時休校を発令。デモに参加した学友は学校代表者(井手学生課長)と会い、27日に学部長会見を要求
10.27 学部長との会見開かれず
10.28 28・29両日の教授会で、スト決行の責任者7名を退学処分にする旨発表
11.22 不当処分反対で学生が学内抗議集会を要求。それに対して職員は学生に暴行を加える。「警職法改正案反対中央集会」に参加し、商経学部前でデモをしていた他大学生が乱暴される。学校当局は事態悪化という理由で、高木学部長名で機動隊2000名を学内に導入
1959年(昭和34年)10.創立70周年記念式典挙行、天皇、岸首相、松田文相ら出席、学生代表2000名出席
1960年(昭和35年)05. 哲学学科教授赤坂三男(学生指導委員長)学生に対し安保反対デモへの参加を禁じる
05.05 安保改定阻止、岸内閣打倒のスローガンのもとに、1500名が全学連と国会前をデモ
05.13 安保改定促進学生総決起大会(自民党学生部)に日大生500名参加、提灯デモで気勢あげる
(注)アイク訪日の際、応援団、体育会等を動員して歓迎と護衛の用意をしていた
1962年(昭和37年)01. 数学科事件(文理学部長秋葉安太郎は、数学科の福富節男、木下素夫、銀林浩、倉田令二郎の4氏に、大学の思想にあわないと辞職を強要)
1963年(昭和38年) 芸術学部応援団解散決議
11.福富氏、私物を取りに来て、職員に暴行される
1964年(昭和39年) 応援団、法学部自治会へ暴行を加える
1965年(昭和40年) 哲学科事件(哲学科総会で選出の常任委員を研究室が替えさせる)
応援団が右翼暴力団と「日韓批准集会」に出席
1966年(昭和41年) 6時限制問題(「合理化」により、サークル活動を圧迫)
4月 日大応援団、球場にて白昼、亜細亜大応援団に暴行 大々的に新聞報道される。
10.14 経済学部三崎祭で芝田進午氏の講演が不許可になり「芝田進午闘争」が始まる。
11月 芝田進午闘争 講演会不許可事件の余波は、この月の大学祭で全研究会の抗議掲示により,全学生に知れ渡ることになる。
12.13 経済学部学生会(藤原執行部)総合部会で応援団の解散を決議。
(けいとういで加筆あり)
日大斗争前史 その1(1958−1967年6月)
夜明け前はとても暗かった
この大学,日本大学では10万人という大量の学生を抱えて,しかも学生運動がない,平和な大学と言う売りで社会に貢献する大学と言う触れ込みで学生を管理して,企業社会に従順な学生を世に送り出しつづけていました。
大学経営者のこの目論見はいつまでも成功しつづけるかに見えました。
でもそういった評判の影では民主化や学問の自由を求める学生を暴力的に支配する日大当局による弾圧が日常的に行われていました。
それはすさまじく,他大学並みの自由を求めて行動した学生に体育会や応援団が集団暴力で襲いかかり,その混乱を引き起こしたと言う理由で自由を求める学生が当局によって処分されると言うことが平然と行われていました。暴力の被害者が責任をとらされ,追放されていくのです.
大量の犠牲者が出て、しかも闇から闇へと葬られていきました.
こういったことは1958年の日大改善案闘争のすさまじい学生弾圧以来長年続いてきたのです。
その後,表に出た事件としては,数学科事件とか.1967年の経済学部学生会(学生自治会)藤原執行部に対する執行部解散事件などなど・・・枚挙に暇(いとま)がありませんでした。
日大闘争の前段
1958年日大改善案斗争
第二部自治会を中心とした、古田の日大改善案なるものに対する反対斗争。
後日、当事者の証言によると各研究会、一般学生などかなり広範な反対運動や連続座り込みなどが行われた大規模な反対運動だったようだ。(共産党の活動家が中心だったという当時の当事者の証言がある。また当局、橋本学生課長く当時>の証言もまた同様であった。)
大量の犠牲者(退学など処分者)を出して斗争は終息した。
これにより古田独裁体制とその後の日大の学内抑圧体制が確立した。
何しろ当時も日大はマンモス大学であったのだから・・・
以下は、当時配布された、学部当局の小冊子である。
一方的な宣伝文書ではあるが、当時の闘争の一端がうかがえるものである。
「68-69東大・日大闘争を記録する会」により保管されていた古文書の中から今回の調査(2004年2月)によって、発掘されたものである。
(原資料は、経短・学部学生会=経斗委から記録する会にかつて提供されたものである。)
これらの資料は、「日大闘争史をつくる会」より今回、提供されたものである。
今後の彼らの発掘、分析、保存の作業の努力に期待したい。
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昭和33年10月30日 「学生諸君に告ぐ」 (日大経済学部当局・配布パンフ=全文掲載) 日本大学経済学部 商学部 短期大学部 学生諸君に告ぐ |
1965年日大文理学部数学科事件(資料参照)
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