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日大学生自治権奪還ドキュメント 前史1965年 next
第一部
1965年 一般状況
1965年、その年はその後、長く続く騒然たる世界が始まってから数年たち、われわれの世代が、ようやくその戦争の意味を分かり始めた年であった。
ベトナム戦争の激化、国内では日韓条約反対闘争とうち続いた政治の騒然たる季節。
われわれの世代は若く、まだ多くが眠っていた時代であった。
国内では、高崎経済大・早稲田闘争が起こっていた。
全共闘という言葉をはじめて聞いたのは、早稲田大学の闘争によってだった。
その頃われわれの母校日本大学では、政治闘争には関係のない一見平穏な学生生活があった。
世界の戦争や学生運動の騒ぎを横目に見て、大過なく過ごそうとしていたわれわれにショックを与えた事件がひとつだけあった。
それは悪名高い「日大応援団暴力事件」である。
日韓条約
1965年6月22日に日本と大韓民国の政府間で調印された日韓基本条約と,それに付随する一連の協定・外交公文の総称。これにより両国は国交を開くが,その後現出したいわゆる〈日韓癒着〉体制の基底をなしている。
[成立の経緯]
1910年の日韓併合により日朝両国家間の関係はいったん消滅してしまったが,第2次大戦後独立した朝鮮とサンフランシスコ講和条約(1951年9月調印)をへて独立を回復した日本とが,いかなる新たな国家関係を結ぶのかがそもそもの問題であった。
■ ベトナム戦争年表(1965年) ■
1965年 ベトナム戦争年表http://www10.plala.or.jp/shosuzki/edit/asia/vietnam/vietnam2.htm より転載
65年1月
1.01 アメリカの要請を受けた朴正熙政権、最初の海軍部隊を派遣。米国はその見返りとして、韓国が導入した外資40億ドルの半分である20億ドルを直接負担する。その他日本からは11億ドル、西ドイツなどの西欧諸国からは10億3千万ドルの軍需物資を調達する。
1.04 サイゴンで仏教徒と学生が反政府・反米デモを再開する。その後フエにも拡大。
1.08 韓国、先遣隊2,000名をベトナムに派遣。最終的には歩兵2個師団、海兵隊1個旅団、工兵などの支援部隊と合計5万名を送る。高い反共意識を持つ韓国軍は、西側最強の戦闘力を保ちつづける。
1.20 ジョンソンが大統領就任演説。「我々は二度と“誇り高い孤立”を保ち続けることは出来ない」と強調。
1.22 デモが過激化する。数十人が逮捕される。政府は23日サイゴンに戒厳令を施行、25日にはフエにも戒厳令。
1.27 グエン・カーンがふたたび軍事クーデター。軍事評議会がファン・バン・フォン内閣を更迭し、グエン・カーンが自ら首相の座に納まる。スー立法評議会議長(名目的元首)は残留。グエン・カーンは仏教徒の支持を背景にしていたが、軍主流を握るカトリック教徒と対立していた。
1月 米海軍、「Operation Game Warden」を開始。武装舟艇が内陸部水路を3千海里にわたりパトロールする。
1月 この頃、岡村昭彦『南べトナム戦争従軍記』(岩波新書)、開高健著『ベトナム戦記』(朝日新聞社)が相次いで刊行される。
1月31日 右派軍部内での対立が表面化。ルアンプラバンのノサヴアン将軍(副首相)が右派の全将軍を召集して会議を開催。無名のブーンルート・サイコシー(Bounleut Saycocie)大佐が政府ラジオ局と競技場を占拠する。連合政府には反対せず軍の再組織化を要求するが真意は不明。
65年2月
2.03 ルアンプラバンのノサヴアン副首相とシーホー国警長官が、軍規粛正、前線将兵留守家族の生活保証要求を名分とするクーデターを起こすが失敗。タイに亡命する。これを機に右派内部での指導権が移動。
プレーク急襲事件とフレイミング・ダート(燃える投げ槍)作戦
2.07午前2時 解放戦線(実際は中部軍事司令官ダン・ブ・ヒエプ上将の率いる北ベトナム正規軍)がプレーク基地を奇襲攻撃。カノン砲、57ミリ無反動砲などで至近距離から攻撃。特攻隊が基地内に侵入し、宿舎に火をつけ、航空機10機を破壊。30分後に消え去る。この襲撃で米軍事顧問8人が殺され、76人が負傷。(一説に“政府発表で43機が破壊”とされる)
プレーク基地: 中部高原地帯にある南ベトナム政府軍の基地。第二軍団の司令部がおかれる。アメリカ軍特殊部隊の基地ともなっており、1千人を超える米軍事顧問団が駐屯していた。一説では「プレーク・クイホン基地」(http://www.indochina-war.com/history.htm)とある。 |
2.07早朝 南ベトナム訪問中のバンディ補佐官、ジョンソンに電話し、「攻撃はアメリカ人を狙ったものであり、直ちに報復しなければならない」と報告。
2.07午前(ワシントン時間で6日午後9時) ジョンソン大統領は、国家安全保障会議を招集。限定北爆の開始を命令する。
ニューヨークタイムスのトム・ウィッカー記者は味のある文章を書いている。「ジョンソンは周囲を見渡した。そして、マクナマラの中に、北爆が技術的に可能であるとの確信を、バンディの中に、それが知的に健全な政策であるとの信念を、ラスクの中に、それが歴史的な必然であるとの保証を見出したのであった」 |
2.07午後3時 空母レンジャー(一説にコーラル・シーとハンコック)を飛び立った艦載機45機が、北ベトナム南部クアンビン省のドンホイ、コンコ島などを爆撃。フレイミング・ダート(燃える投げ槍)作戦と呼ばれる。ドンホイでは、被害は「戦略的要所」にとどまらず病院も爆撃されている。限定北爆直後の世論調査で、ジョンソンへの支持率は70%に達する。
2.10 解放戦線ゲリラ、ビンディン省の省都クイニョンの米軍宿舎に爆弾。米国人要員23人が死亡。
2.11 コスイギン首相を団長とするソ連代表団がハノイを訪問。代表団にはソ連共産党のイデオローグであるアンドロポフ対外連絡部長が同行。コスイギンは、防衛力強化のため必要な手段について北ベトナムと合意に達したと述べる。数週間後に、新型の地対空ミサイルがハノイに到着。
2.11 第二波のフレーミング・ダート作戦が実施される。コスイギン滞在中の攻撃に対し、ドブルイニン駐米大使は「ソ連への挑発行為」と非難。
2.19 ファン・ゴクタオスル(カトリック教徒)によるクーデターが発生。(この人名は詳細不明。日本外務省の文書では「タオ大佐」との表記)
2.21 クーデターは失敗に終わるが、国軍会議でグエン・カーンが度重なる混乱の責任を問われ、3軍司令官を解任される。後任にチャン・バンミン少将が就任。グエン・バン・チューが国軍会議の議長となる。
2.21 国家立法評議会のフアン・カク・スー議長は前政権の外相ファン・フイ・クアトを首相に指名。米政府もこれを認める。(ファン・フイ・クアトの呼び方はまちまちで、ファン・フィアフト、ファン・フイク・アトなどがある。元は内科医でバオダイ帝の下で首相など政府要職を勤めた)
2.22 解放戦線6千人が、ダナンの米空軍基地近くに集結。ウェストモーランド将軍、米国海兵隊の2個旅団にダナン防衛のため出動することを要請。ジョンソンはこの要請を受け入れる。
2.22 サイゴン駐在のテイラー大使は、かつてフランスが“敵意に満ちた”アジアの密林地帯に兵を送り続け、悲惨な結果を招いたことを引き合いに出し、米兵の出動に対し「重大な保留」の意を表明。
2.25 グエン・カーン、フランスへと出国。ウィキペディアでは「アメリカの対南ベトナム政策への不信から南ベトナム解放民族戦線に歩み寄る可能性を示唆したこと」で怒りを買い、「グエン・バン・チューら若手将校によって追放された」とある。
2.26 コスイギン、全国テレビで帰国報告。米国の北爆を非難する。なおコスイギンは中国と北朝鮮にも立ち寄り、ベトナム支援のための統一行動を呼びかけたが、毛沢東はこの呼びかけを事実上拒否する。
2.27 米国務省、北ベトナムの侵略を強調した『ベトナム白書』を発表。
2月 アイゼンハワー元大統領が核使用問題についてのジョンソンらの質問に答える。アイクは、朝鮮戦争当時、北朝鮮と中国に次のように警告したと述べる。「満足できる休戦協定を実現できなければ、戦闘地域と武器使用に関して、われわれが順守している制限を取り除くであろう」
2月 ニューヨーク・タイムズ、「無名の政府高官」によるこの「推測」として、ベトナムでのアメリカの核兵器使用「抑制」は「やがて解除されるかもしれない」と報道。この高官はマクナマラ自身であった。
2月 英国、ICCの共同議長国としてソ連に和平への協力を呼びかける。
65年3月
3.02 本格的な北ベトナム爆撃作戦「ローリング・サンダー」が開始される。6ヶ月にわたり月平均5,000機が参加し、北緯19度線以南の北ベトナム軍事施設、軍港、レーダー基地などを十数回にわたって爆撃。当初は限定的なものとされ、市街地に近い軍需工場や兵器・物資集積所、港湾施設、飛行場、空軍基地に対する攻撃は禁止される。
ベトナムはソ連から多数のミグ戦闘機、SAM(地対空ミサイル)を導入し北爆に対抗した。北ベトナムの主力防空ミサイルはソ連製SA-2地対空ミサイル。制式名はV-75ドヴィナ。NATOはガイドライン・ミサイルと呼んだ。マクドネルF-4やF-105戦闘爆撃機の被撃墜が続出する。その大型さ故に米軍パイロットから「空飛ぶ電柱」と恐れられた。 |
3月 米軍は南ベトナム内の解放戦線拠点への爆撃も強化。ビエンホア、ロクニン、ダクトなど30の町が繰り返し爆撃される。
3.02 マクナマラ、下院歳出委員会で証言。必要であればいつでも核兵器を使うと述べる。
3.07 アメリカ、北爆強化のためダナンに大規模な空軍基地を建設し、第一軍管区の中核基地とする。第一および第三海兵師団からなる第三水陸両用軍(軍団長クッシュマン中将)が新たに編成され、南ベトナム北部の第一軍管区を統括することとなる。
3.07 パテート・ラーオと北ヴィエトナム軍、サワンナケートにある王国政府軍の訓練所を攻撃。
3.08 海兵隊第三師団第3遠征旅団(2個大隊3,500名)が地上戦闘部隊の第一陣としてダナンに上陸。解放戦線が射程15〜20qのロケット砲を持つため、基地から50〜60qの範囲の地上防衛が必要となる。このため駐留米軍は解放勢力との直接戦闘を前提として配備される。(一説に第9遠征旅団)
米軍の編成: 朝鮮戦争のときは三個大隊で一個連隊を形成、三個連隊で一個師団、2〜3師団で「軍」を形成していた(砲兵・工兵を除き)。この連隊に当たるのが旅団である。しかし「旅団」はその名のごとく一時的なもので、平時では9個大隊が直接師団の統率の下にあった。師団としての機動性の強化のための改革である。 |
3.11 マーケット・タイム作戦が開始される。米・南ベトナム海軍が協力し、解放戦線への海上補給ルートの遮断を狙う。この後、海上からの補給はほぼ不可能となり、ホーチミン・ルートが唯一の補給路となる。
3.12 ハンフリー副大統領がドブルイニン大使と会談。「中国には屈しないが、南ベトナムが社会主義化してもかまわない」と提案。
3.15 ジョンソン、ベトナム増派と北爆の強化(ローリング・サンダー作戦)を発表。北べトナムが敵対行為を停止しない限り交渉せずと言明。また北爆は集団自衛であり、戦争状態ではないと述べる。
3.16 82歳のアリス・ハース(Herz)がデトロイトで焼身自殺。ジョンソン声明に抗議したもの。ハースはナチの弾圧を生き延びた平和主義者だった。
3.17 CIA、解放戦線勢力を正規兵3万7千、民兵10万と推定する報告。
3.19 米国防総省、北爆にナパーム弾を使用していることを明らかにする。
ナパーム弾: 主燃焼材のナフサにナパーム剤と呼ばれる増粘剤を添加してゼリー状にしたものを充填した油脂焼夷弾である。きわめて高温(900〜1,300度)で燃焼し、広範囲を焼尽・破壊する。非人道兵器とされたため、現在、米軍ではナパームの代替品であるマーク77爆弾が使用されている。 |
3.20 解放戦線、サイゴンの米大使館の一部を爆破。168人死亡、49人負傷。(一説に30日)他にもサイゴン周辺のアメリカ施設にテロ攻撃を集中。65年の前半だけで1,000人を超える死者を出す。
3.20 米統合参謀本部、解放戦線に対する政府軍攻勢を、米軍と連合軍が先導するよう勧告する。
3.20 中国、ソ連の軍事物資の鉄道輸送を許可。
3.21 韓国、2千人の部隊をベトナムに派遣。派兵を嫌った韓国青年4人が下関に密航。当局に逮捕され強制送還。
3.22 一説によれば、この日、アメリカ軍はベトナム戦争で毒ガスを使用。
3.22 解放戦線、「五項目」提案を発表。@アメリカ帝国主義の排除、A独立、民主、平和、中立の南ベトナムおよび祖国統一の実現、B南ベトナムの解放および北ベトナムの防衛、C世界人民との連携、D敵国アメリカと売国奴に対する決定的勝利、を掲げる。綱領に比べ内容的に急進化。ただし「提案」というよりは「戦いのスローガン」のニュアンスが強い。
3.25 労働党が第11回中央委員会を開催。北爆開始後の緊急情勢と任務に関した討議。「戦争の局面が特殊戦争から局地戦争に転換した」とする。南北ベトナムの全土が戦争状態に突入した。南ベトナムは「大戦線」、北は「大後方」と規定される。
3.31 日本の著名人300人は、ニューヨーク・タイムズ紙にベトナム反戦の意見広告を掲載。
3月 フエで政府軍の一部が反乱を起こす。
3月 カンボディア、国境画定委員会の設置を提案した米国に抗議。米大使館などをデモ隊が襲撃する。(当然やらせでしょう)
3月 ブノンペンでインドシナ人民会議が開催される。南ベトナム民族解放戦線、パテト・ラオ、ベトナム祖国戦線、在仏ベトナム人団体などが参加。米軍の撤退、北ベトナムに対する挑発侵略行為の停止、南ベトナムの民族自決を決議する。
3月 フランス、ウ・タン国連事務総長、インド、ユーゴースラヴィアなどが調停に動く。
3月 ミシガン大学のアン・アーバー校で、最初のティーチイン(セミナーと集会、演説の複合行事)が開催される。その後の数ヶ月に全国100以上の大学に波及。
65年4月
4.01 交渉による平和解決を促した非同盟一七カ国のアピール。
4.01 サイゴンの米軍司令部、樹木を枯らす新兵器を使用中と発表。
4.01 国家安全保障行動メモ(NSAM)328号、ジョンソン大統領は海兵隊二個大隊をふくむ2万人の追加配備を承認する。また「よりアクティブな兵力の使用を承認」し、ダナンの海兵隊に対し、近隣での解放勢力根絶のため武装パトロールを許可する。この決定はその後2ヶ月にわたり発表されなかった。
4.03 アメリカ、北ベトナムの輸送システムへの爆撃を開始。約1ヶ月の爆撃で、鉄橋、鉄道分岐点、トラック集配所、貯蔵施設などが破壊される。
4.03 タインホア省の防空部隊、2日間で米軍機57機を撃墜したと発表。ミグも出動し空中戦でF105戦闘爆撃機2機を撃墜。
撃墜機数の違い: 最大の理由は、米国のカウント方式が「未帰還パイロット」数を機数としてカウントすることにある。パイロットが救出された場合、米軍は撃墜とカウントない。米軍はパイロット救出に全力を挙げるので、海上に出てからパラシュート脱出した場合、かなり救出される可能性が高い。また、無人偵察機が撃墜されても、米軍はカウントしない。 |
4.05 機関紙協会の金子徳好、外出の際の反戦ゼッケン着用をはじめる(以降1973年までつづける)。
4.07 オーストラリアとニュージーランドが、ベトナムに地上軍の派兵を決定する。
4.07 ジョンソン大統領、ジョンス・ホプキンス大学で講演。「征服なしの和平」と「無条件の対話」を提起。戦争が終われば米国は大量の支援を送り、ベトナムの近代化に貢献するだろうと述べる。北ベトナムはただちにこれを拒否。
4.08 北ベトナム第二回国会。ファン・バン・ドン首相が「四項目」を表明。@アメリカ軍の南ベトナムからの撤退。アメリカ政府の干渉の停止。A南北ベトナムの他国との軍事同盟締結の禁止。B解放戦線綱領を基礎として、南ベトナム問題の人民自身での解決。Cベトナム統一間題のベトナム人民自身による解決。その後の交渉で第三項の「解放戦線綱領を基礎として」が最大の難関となる。
4.09 米機220機が北爆。海南島西南で中国のミグ機と交戦。
4.10 ニューヨーク国連本部ビル前で北爆抗議集会。8千人が参加する。
4.11 第三海兵師団の主力となる二個大隊がフ・バイとダナンに配備される。これに第26、第27海兵連隊などをふくめ、第三水陸両用軍を形成。第一師団がダナンの防衛を担当。第三海兵師団はケサンを中心に非武装地帯の防衛にあたることになる。(この項、不明確。第一海兵師団が配属されるのは66年以降?)
4.12 中国政府、北爆に対応し戦争準備の強化を指示する。
4.15 神戸港湾共闘会議、ベトナム向け軍需品の積込み拒否を決定。
4.15 アメリカが解放戦線の拠点に集中爆撃。1日で1千トンの爆弾が投下される。
4.17 ワシントンで初の大規模なベトナム反戦集会。アリス・ハースの呼びかけに応え、学生ら二万人が結集する。
4.17 ベトナム人民軍総参謀部は中国軍総参謀部に至急電を送り、事前に想定し合意してあった後方支援を正式に依頼。これに応え中国人民義勇工程隊がベトナム入り。北部各地の防御工事、鉄道修復を担当する。
4.20 ホノルルでジョンソンが戦略会議を開催。マクナマラ、ウェストモーランド、ホイーラー、ウィリアム・バンディ、テイラー大使が参加。軍幹部は、「米国と自由な世界のための部隊」17個大隊4万人を追加派遣することを提案。さらにビエン・ホア/ブンタウ、チュライ、クイニョン、クアン・ガイの4ヶ所に旅団規模の基地を建設するよう要請。
4.21 ジョンソン大統領、アメリカ軍戦闘部隊を6万人に増員する計画を発表。
4.22 「べトナムの平和を願う市民集会」
で、谷川俊太郎作詞・武満徹作曲の『死んだ男の残したものは』が初演される。
4.23 南ベトナムを視察した外務省顧問松本俊一、衆院外務委で「北爆の効果は疑問、ベトコンの実態は民族運動」とのべる。米上院外交委は、松本俊一報告をめぐって論議。マッカーサー国務次官は「朝日」、「毎日」に共産主義者が浸透していると証言。
4.24 ジョンソン、ベトナム駐留のアメリカ人は直接戦闘の準備が出来ていると述べる。
4.29 アメリカ海軍第96戦闘飛行隊のF-4Bが中国の領空を侵犯し、中国人民解放軍空軍の戦闘機に撃墜される。
4月 北ベトナムの党・政府は「戦時共産主義」(Chu nghia cong san thoi chien)政策を断行する。農業合作社における従来の「社会主義的分配の原則」つまり農業合作社社員(農民)の労働日と労働点数に応じた分配政策を停止して、「戦時分配政策」つまり社員およびその家族の年齢に応じた定量配給制への転換をおこなう。
4月 ラオス三派首脳会談の事務レベルでの予備的折衝が始まる。
65年5月
5.03 カンボジアのシアヌーク殿下。米国との国交断絶を発表。ニューズ・ウィーク誌のカンボディア王后誹謗記事および米越空軍機のカンボディア領コンポン・チャム州の爆撃事件を直接の契機とする。
5.05 最初のアメリカ陸軍の戦闘部隊、第173空挺旅団の3500人が沖縄からビエン・ホア/ブン・タウに到着。ビエンホア空軍基地と基地周辺の防衛任務に着く。米軍はビエンホア空港を南ベトナムの軍事中枢として強化。オーストラリアの大隊、ニュージーランド中隊などもビエンホアに配属される。。
第173空挺旅団: アメリカ陸軍の中で唯一の独立空挺旅団であり、沖縄の西表島でジャングル戦のトレーニングを積み、米軍の中でも最優秀の部隊だった。
旅団の主力となる第503歩兵連隊は、空挺歩兵4個大隊からなる。 |
5.09 日本テレビが、「ベトナム海兵大隊戦記第1部」を放映。橋本内閣官房長官がNTV社長に抗議。その後各界の圧力により第2部は放送を中止する。
5.10 米政府、「メイフラワー」と呼ばれる和平工作に着手する。ラスク国務長官が、ワシントン駐在ソ連大使のドブルイニンと会談。和平への仲介をもとめる。65.5
5.11 解放戦線、雨季攻勢を展開。2500人の部隊がソン・ベ(Song Be)の特別部隊駐屯地を攻撃、一時制圧する。ソン・ベはサイゴン北西90キロ、フォクロン省の郡都で、周囲は解放戦線の影響下にあった。米国ではチャールズ・ウィリアムズ少尉の英雄的行動が大々的に宣伝される。
5.12 フィリピン議会、2千人のベトナム派兵法案を可決。ニュージーランドも砲兵部隊の派兵を決定。
5.13 解放戦線第272連隊第5大隊、町の内外で2日間にわたる激戦の後撤退。南ベトナム軍に甚大な被害を与える。また中部高原でも解放戦線が攻勢をかける。政府軍は二個大隊をあらたにフォクロン省都フォク・ビンに派遣。
5.13 ジョンソン大統領、北爆を一時停止し北ベトナムの交渉開始を促す。
5.14 中国が二度目の核実験に成功。「核弾頭をつけたミサイルの発射によるもの」と報道されたが、これはおそらくデマ。
5.15 ホーチミンがラジオ演説。「北爆一時停止は陳腐な計略だ」と非難する。アメリカは翌日より北爆を再開。北爆目標は、タインホア省を越えて北緯20度以北に拡大。
5.15 沖縄の日本人船員,米軍による南ベトナム行き命令を拒否.全軍労などがベトナム徴用に反対する集会.
5.16 ビエンホア空軍基地で大爆発。米軍機40機が破壊され、130人が死傷。
5.19 「ベトナム人民支援日本委員会」結成、1億円の募金運動開始。75年までに5億662万円の募金を達成。
5.20 北ベトナム政府、ふたたび和平を提案。ワシントンはこれを拒否。
5.21 南ベトナムでクーデター計画が摘発される。
5.21 南ベトナム解放通信、米機が7日間連続して有毒化学薬品を散布したと報道。最初の枯葉剤報道。
5.25 政府軍、フォクロン省ドンソアイに特殊部隊基地を建設。解放戦線はこの基地を最大の攻撃目標として準備を開始する。攻撃には第272連隊のほか新たに編成された第273連隊が加わる。
バーザの戦い
5.28 解放勢力、バーザの政府軍基地を攻撃。バーザは中部海岸地方のクアンガイ省にあり、政府軍第51歩兵連隊が防衛していた。
5.28夜 解放勢力、バーザから3キロのロックト駐屯地にロケット砲撃を加える。
5.29朝 バーサから政府軍2個中隊が出動。解放勢力はこれを待ち伏せし、100人を殺害。
5.29夜 解放勢力、バーザ基地に105ミリ砲2門で攻撃を加える。
5.30朝 解放勢力、バーザ基地とハタイン駐屯地に猛攻を加える。政府軍はクアンガイ市から三個大隊を派遣するが、待ち伏せに会い分断される。三時間の激戦により、政府軍は甚大な被害を出す。
5月末 ベトナムの米地上軍兵力が5万1千人に達する。内訳は陸軍2万2千、海兵1万6千、空軍1万、海軍3千人。南ベトナム政府軍は50万人に近づく。
65年6月
6.04 ソ連・北ベトナム援助協定が調印される。
6.07 ウェストモーランド、このままでは南ベトナム軍が崩壊するとし、米国などに35箇大隊の追加配備を要請。さらに9個大隊がいずれ必要になるだろうと述べる。
ウェストモーランドの戦況報告: 南ベトナム軍は1週間にほぼ1個大隊が失われている。ベトコンは4つの軍管区すべてで連隊規模の攻撃を起こす能力を持っている。他方南ベトナム軍の逃亡率はでたらめといっていいほど高い。できるだけ早く米軍を増強する以外に選択はない。 |
6.08 国務省のマクロスキー報道官、「アメリカ軍は、ベトナム軍とともに、必要に応じて戦いに参加できる」と発表。ウェストモーランド司令官に直接戦闘参加の権限を与えたとのべる。ウェストモーランドは「索敵と撃滅」作戦を指示。米軍スポークスマンは、ベトナム駐留将兵が5万人に達したと発表。
6.08 オーストラリア王立連隊第一大隊が南ベトナムに入る。
6.09 中国軍正規軍よりなる後勤部隊が中越国境を越える。防空任務を帯びた高射砲部隊や通信施設部隊なども含まれる。70年代初めまで中国がベトナムに送った軍人の総数は32万人以上に達する。
6.09 解放戦線、友好諸国に義勇兵を要請する権利があると声明。『人民日報』はそれに応ずる社説を掲載。
ホーチミンは「中国同志に守りを助けてもらい我々は余った兵士を南へ送る」と発言したという。
6.09 米工兵隊、カムラン湾に補給基地の建設を開始。
6.09 最初の社共統一による「ベトナム侵略反対6・9統一行動」が行われ、全国200ヵ所で集会とデモ。東京では10万人が参加。
6月10日 ドン・ソアイの戦い
深夜 解放戦線第9師団第272、第273連隊が、ドンソアイ基地を攻撃。砲撃による支援の下に基地周辺の塹壕と機関銃台座を奪う。ドンソアイはビン・フォック省の省都で人口8万人。ホーチミン市から国道14号線を真北に車で2時間半。ビン・フォック省はベトナム第一のゴムの生産地といわれる。
未明 ドンソアイの特殊部隊顧問のチャールズ・クインシー・ウィリアムズ少尉、すでに基地内に殺到した解放戦線を見て、方面本部の中に防御態勢を編成するよう指示。防御に徹しながら増援を待つこととなる。
早朝 アメリカと南ベトナムの空軍が、ゴム園に篭る解放戦線に向けナパームを投下。
午後 タンソンニャットを発った南ベトナム軍第5師団の一個大隊、解放戦線の砲火により着陸できず。離れた低地に着陸し、徒歩でドンソアイに向かう。米軍の一個大隊はドンソアイの滑走路に着陸することに成功したが、戦闘への直接参加は認められなかった。
夕方 南ベトナム軍第42レンジャー大隊、チャン・ロイに着陸した後、ドンソアイに向け急坂を上る。解放戦線はこれに対し待ち伏せ攻撃をかける。戦闘は夜遅くまで続く。
6.11 解放戦線、夜にまぎれて撤退。ジャングルに消える。南ベトナム軍は800人以上が死亡。アメリカ兵にも35人の犠牲者を出す。第272連隊は「ドンソアイ連隊」の称号を賜る。
6.11 ファン・フイ・クアト首相、内閣改造問題をめぐる内紛が原因となって総辞職。民政が崩壊する。これまで20ヶ月のあいだに9回の政変が発生。
6.14 南ベトナム,国家防衛会議(10人国家指導委)が発足,グエン・バン・チュー少将が議長に就任.チュウはハノイ生まれのカトリック教徒で強烈な反共産主義者であった。
6.16 サイゴン空港ビルで爆発。46人が負傷。
6.16 北ベトナム、米機がハンセン病療養所を爆撃、患者112人が死傷したと非難。8月には病院・結核療養所・師範学校などに無差別攻撃を加えていると非難。また爆撃時に毒ガスも使用していると非難。
6.16 マクナマラ、駐ベトナム米軍兵力を7万5千人に増強すると声明。
6.18 ローリングサンダー作戦の一環としてB-52が爆撃に参加(Arc Light mission)。グァム島より出撃したB-52は、サイゴン近郊の解放戦線支配区に大量の爆弾を降り注ぐ。これにより解放戦線の大規模集結は不可能となる。
解放戦線の幹部チュオン・ニュー・タンの回顧より: ゲリラが耐えてきたもので、あの過酷なB52爆撃テロに匹敵するものはない。1.5キロ先からでも爆撃の轟音で鼓膜が破れ、これでジャングルの住人の多くが永久に耳が聞こえなくなった。1キロ先でも衝撃波を受けたものは気絶した。500メートル以内に一発でも落ちれば、補強されていない防空壕の壁は崩れ落ち、中でうずくまっていた人たちは生き埋めになった。その恐ろしさは徹底していた。頭が、逃げ出せという、分けも判らぬ叫び声をあげるのだが、体の機能は統制不能に陥るのだ。 |
6.19 国家防衛会議、臨時憲章を発表。グエン・カオ・キ少将(空軍副司令官)を首相に任命。グエン・バン・チュウ議長(国家元首との二人三脚となる。その後2年間の間に13回ものクーデター未遂事件が発生する。
6.19 アメリカ海兵隊、解放戦線と初の単独交戦。索敵行動に出た海兵隊部隊が待ち伏せ攻撃を受け兵士7人が殺される。
6.23 愛国戦線、プーマ首相はアメリカの傀儡であると非難するメモを発表。
6.24 キ首相、中立化構想の提唱者であるフランスと外交関係を断絶すると声明。
6.25 サイゴンの水上レストランに爆弾テロ。米国人をふくめ死者42人、負傷者80人を出す。
6.26 ウェストモーランド将軍、「南ベトナム軍支援のために」、米軍兵力を指揮する権限を与えられる。米軍にサイゴン北西部の解放戦線拠点の掃討を指令。
6.27 第173空挺旅団が、サイゴン北西部の解放戦線の支配区“D”の索敵・掃討作戦を実行。アメリカ地上軍を主体とする最初の攻撃作戦となる。
6.28 サイゴンの米軍司令部、南ベトナム派遣軍が12万5000人に増強されたと発表。あらたに第一騎兵師団が派遣される。
6.29 南ベトナム政府、徴兵制度を強化。20〜30歳のすべての男子を兵役の対象とする。
6月 65年前半だけで、各種テロによる南ベトナム市民の死者が1千人以上に及ぶ。
6月 ワシントンの反戦デモに2万5千人が参加。
65年7月 米軍地上戦闘部隊の大量投入
7.01 解放戦線、ダナン空軍基地へのロケット砲攻撃を行い、3機の航空機を破壊する。
7.02 米機、ハノイ北方の工業地帯を初爆撃。
7.06 米政府、北ベトナムに2ヶ所の地対空ミサイル基地が完成、さらに2カ所が建設中と発表。
7.07 北ベトナム、青年義勇軍の創設を指示。総動員体制に入る。
7.08 テイラー大使が更迭され、ロッジ前大使が再起用される。
7.09 ジョンソン米大統領、南ベトナムへの米軍地上戦闘部隊の大量投入を決断。「ベトナムに必要なだけ兵力を増強する」と言明。ラスク米国務長官は「ベトナム戦争で聖域は存在しない」と述べる。
7月 南部労働党の第2回中央委員会、「アメリカとの愛国抵抗闘争を開始せよ」との決議を採択。
古田によれば、この時点でアメリカへの配慮という解放戦線の基本的存在理由は消失した。解放戦線ゲリラは、その後北ベトナム軍と一体化し、現地組織部隊としての性格を強めていく。しかしそれは「解放戦線」というツールが独自の役割を終えただけで、労働党および解放勢力内での南のイニシアチブの低下をさすものではない。レズアンは依然,労働党の書記長であり続けたし、レドクトは対米交渉を仕切るトップであり続けた。 |
7.12 第一歩兵師団の第二旅団がベトナムに入る。ベトナム駐留米軍の総員は12万5,000人となる。
7.18 プーマ政権、愛国戦線を排除し国会議員選挙。愛国戦線、プーマ首相はアメリカの傀儡であるとするメモを発表。
7.20 ホーチミン、ジュネーブ協定11周年にあたり、「20年でもそれ以上でも、勝利の日まで闘い続ける」とアピール。
7.20 米軍ベトナム支援司令部(USASCV)にかわり、米軍ベトナム司令部(USARV)が開設される。南ベトナムを四つの軍管区(Corps)に分けた。北部のクアンチ、フエ、ダナン、クアンガイが第一軍。コントゥム、プレイク、バンメトート、ダラトとつながる中部高原は第2軍。サイゴン周辺のロクニン・アンロク、タイニンは第三軍。サイゴンをふくむメコンデルタは第4軍が管轄する。
7.20 ジョンソン、最高幹部を集合し、1週間にわたりベトナム戦略会議をおこなう。ウェストモーランドのベトナム平定戦略が承認される。米軍プラス南ベトナム政府軍と解放勢力の全面的軍事対決に移行。
ウェストモーランド戦略(古田による): 第一段階として戦略的要衝を確保し、サイゴン政権軍を崩壊から救う。第二段階として、敵主力部隊を捕捉してこれを破壊する。第二段階においては、物量作戦により敵の補充能力を超える消耗戦に持ち込む戦術を取る。 |
7.24 北爆中の米爆撃機が初めて北ベトナムの地対空ミサイルにより撃墜される。
7.28 ベトナム戦略会議の合意を受けたジョンソン大統領、これまでの7万5千人に加え44旅団5万人を増派すると発表。海兵隊に加え陸軍の派遣も決定される。この結果、毎月の召集は1万7千から3万5千人にまで増加する。
7.29 沖縄配属のB52爆撃機30機がメコンデルタを爆撃。沖縄立法院は超党派で抗議決議。
7.29 第101空挺師団の第1旅団がカムラン湾の近くに展開。
65年8月
8.02 6,000人の米海兵隊が、ダナン南方のクワンナム省で焦土掃討作戦を展開。海兵隊は南ベトナム民兵を用い連合行動小隊を編成。戦略村の保安と解放戦線ゲリラの駆逐に当たる。
解放戦線が浸透している地域は「自由爆撃地域」に指定され、農民をサイゴン政府側に強制移動させた。農村の変革で解放戦線と競うよりは、火力で農村自体の存在を危機にさらす戦略が採用されたのである。 |
8.02 オーストラリア部隊が南ベトナムに入る。
8.03 CBSテレビ、海兵隊のライフル中隊によるダナン近郊村落の破壊の模様を放映。国内に論争を引き起こす。
8.04 ジョンソン大統領、議会に17億ドルの追加支出を要請。
8.04 解放戦線、カムラン湾に上陸した米第101空輸師団に急襲を加える。
8.04 米空軍、中国国境まで48キロのパオハを爆撃。
8.05 解放戦線、ダナンの近くで貯蔵タンクに砲撃。200万ガロンの燃料を破壊する。
8.08 米軍、ダナン近郊の解放戦線拠点チュライ南方への大規模爆撃。
8.11 ロサンゼルスのワッツ地区で黒人暴動発生、州兵が出動し鎮圧。16日までに死者32、逮捕者2,847人、火災2,000件以上。
8.14 沖縄の海兵隊第一師団第7連隊が、中部クアンガイ省チュライ(Chu Lai)海岸に上陸。当地の解放戦線1500人は迎撃作戦を準備。
8.16 解放戦線、国家警察本部を爆破。死者4人を出す。
8.17 解放戦線第一連隊の文書が押収される。これによりチュライの海兵隊基地への攻撃がまぢかに迫っていることが明らかになる。
8.18 作戦が事前に漏れたことから、海兵隊はスターライト作戦を発動。7日間にわたり空と海から解放戦線を攻撃。
解放戦線はチュライ南方のパントゥオン半島に集結していた。海兵隊は海岸から上陸し、掃討作戦を実施した。解放戦線は700人の犠牲者を出す大敗を喫したが、海兵隊も45人の死者、120人の負傷者を出す(解放戦線側の発表では海兵隊900名を死傷したとされる)。また水田にはまった多くの戦車・装甲車が遺棄される。 |
8.24 解放戦線、ビエンホアの米空軍基地を襲撃。5月に続き2回目の襲撃作戦で、約50機に損害をあたえる。(解放戦線側の発表では航空機68、ロケット・バッテリー8、石油タンク22、戦闘車両30を破壊。米・南ベトナム兵3千人を殺害)
8.31 ジョンソンは、徴兵カードの焼却を違法とする法律に署名する。禁固5年と罰金1千ドルが課せられる。
65年9月
9.05 米軍、南ベトナム・ビンディン省で防空壕に毒ガスを投入、35人が死亡。8日にもクワンガイ省バランアンで毒ガスを使用、78人死亡する。(北ベトナム政府は米軍を非難したが、米軍はこれに応えていない)
9.06 ラオスで新内閣が発表される。プーマが首相、国防相、外務相を一人でこなす。スパーヌウォンが愛国戦線側の副首相に指名される。右派の副首相にはレウアム・インシシンマイ(Leuam Insisiengmay)が就任。
9.12 アメリカ陸軍最強と謳われる第1騎兵師団(15,000名)がクイニョン基地に上陸。主な移動手段として従来の車輌に変えてヘリコプターを用いており、その数は400機を超える。
9.18 中部高原地帯のアンケで解放戦線と米軍が激突。
9.20 中国、海南島上空で米機を撃墜したと発表。
9.30 ベトナム駐留米軍の兵員数が13万人を超える。毎月新たに3万5千人が徴募される。
9.30 インドネシアで、大統領親衛隊長のウントン中佐が率いる部隊が、中央放送局などを占拠。6人の軍最高幹部を殺害する。翌日、スハルト陸軍少将がクーデターを鎮圧。共産党への大弾圧が始まる。
9月 労働党政治局会議、「交渉による解決も、軍事的な解決と同時並行で進める」ことを決定。
レ・ズアンはもともと南部の意向を受けた強硬派であったが、今後、戦争を継続する上で交渉は不可避であると認識するようになった。フアン・フン副首相、グエン・バン・ビン将軍らもこれに同調。 |
9月 シハヌーク国家首席は、中国、北鮮訪問に出る。
65年10月
10.01 パテート・ラーオを主体としてラオス人民解放軍(Lao People's Liberation Army)が結成される。パテート・ラーオ軍のカムタイ・シファンドンがそのまま最高司令官となる(本年表ではそのままパテト・ラオの呼称とする)。
10.03 3派代表による会談がヴィエンチャンで再開される。
10.05 ライシャワー米大使、「日本の新聞のベトナム報道は偏向している」と発言。大森実毎日特派員らを名指し批判。
10.08 韓国陸戦部隊の最精鋭である猛虎師団の第一陣が、ヴェトナムに到着する。
韓国は73年3月最終撤退するまでに最大時約5万人、延べ35万以上の兵力をベトナムに投入した。公式記録で約4万人を殺害。韓国軍自らも戦死約5000人、負傷約2万人を出す。その残虐さから、アメリカの新聞では悪魔の戦士(Demon-Hunter)と紹介された。 |
10.13 サムヌアで愛国戦線と愛国中立派による政治協商会議開催。4項目と5原則からなる計画を発表。
10.16 全米40の市で戦争終結をもとめる集会とデモが行われる。反戦の空気が大衆のあいだにも拡大し始める。ロンドン、ローマでも集会が開かれる。
10.17 北爆の規模拡大。タイグエン鉄鋼コンビナートなどが爆撃される。
10月 パテト・ラオと北ベトナム軍が中部ラオスのタケク攻撃。制圧には至らず。
イアドランの戦い
9月 北ベトナム正規軍の第32,33,66連隊が、ホーチミン・ルートを使ってカンボジア国境から侵入。国境から東に向かって下るイアドラン渓谷(Ia Drang)に進出する。国境から11Kmのプレイメ(Plei Me)に米特殊部隊が基地を構えていた。北ベトナム軍はプレイメ後方のフォーチュン山地に拠点を構築する。
10.19 イアドランの戦いが始まる。北ベトナム第33師団がプレイ・メの特殊部隊基地を攻撃。第32師団はプレイ・メ北方でプレイクへの道を遮断。戦闘は35日間にわたる。北ベトナム軍が撤退し、いったん終了。翌年にもふたたび戦闘が行われている。
10.23 プレイクからプレイ・メに向けて米増援部隊が出発。国道14号線を南下し、プレイ・メ制圧を目指す。これに代わる予備部隊としてアンケから1個旅団がプレイクに入る。
10.23夜 プレイクからの増援部隊、プレイ・メ北方で北ベトナム軍第32師団の待ち伏せ攻撃を受ける。
10.25 北ベトナム軍、プレイメへの攻撃をいったん中止。甚大な被害を出し、西方の国境地帯に向け撤退。第66連隊の一部はプレイメイ東方に向け移動し潜伏。
10.26 増援部隊がプレイ・メを制圧。
10月 解放戦線、今度は連隊規模でブレーク米軍基地を正面攻撃。米第一騎兵師団と交戦する。
11月初め 第二次戦闘が始まる。米軍はイアドラン渓谷を撤退中の北ベトナム軍追討を狙う。国境地帯に南ベトナム空挺部隊が阻止線を形成。
11.13 北ベトナム軍が反転し、ふたたびプレイメへの攻撃を開始。最大規模の激戦が18日まで続く。米軍は第一騎兵師団にイアドラン渓谷への出動を命令。空からはB52が支援。
ヘリボーン: 飛行機(エアクラフト)から落下傘で降下する空挺部隊がエアボーンと呼ばれるのと関連して名づけられた。作戦にはベルエアクラフト社の製造したUH-1ヘリコプターが用いられた。 |
11.14 10:48am 第7航空騎兵連隊第1大隊400名がUH-1ヘリでの「エックス・レイ」に着陸、ヘリポートを確保する。「エックス・レイ」はコード・ネーム。プレイ・メイ東方のイアドラン川河畔に位置し、オルバニー着陸場と呼ばれた。
11.14 待ち構えていた北ベトナム軍第66連隊の数千名が即座に包囲網を敷く。戦闘開始早々、米軍は兵力・地理共に不利な状況に陥る。(第66連隊は予備部隊であった。一説に北ベトナム側の戦力は2個連隊規模とされる)
11.15 米軍増援部隊がエックス・レイ南東のVictor着陸所に到着。孤立した部隊の救援をめざす。
11.17 エックス・レイ北方、イアドラン川の北岸Albany着陸所に進出した米軍部隊、北ベトナム軍の待ち伏せ攻撃を受ける。(14日と同一事実かもしれません)
11.17 孤立した米軍部隊は死者155人、負傷者124人を出し壊滅。(その後も追撃を受け4日間で234人の兵士が死亡したという説があるが、これは鵜呑みには出来ない)
この項は未確定です。多くの記述(11月14日の項)では、この戦闘が記載されないまま「激戦に勝利した」としか書かれていません。日付にも3日〜7日間の誤差があります。双方の死者の数も相当のばらつきがあります。米軍の公式記録は、当初この戦闘を隠していた可能性があります。この戦闘を題材にしたメル・ギブソン主演の「ワンス&フォーエバー」という映画があるそうです。一度見ておかなければならないでしょう。 |
11.21 イアドランの戦闘が終了。最終的に北ベトナム軍の戦死者は1519人(一説に3,561人)に達し、アメリカ軍も約1000人中305人が戦死し、524人が負傷した。この戦闘自体はアメリカ軍の勝利と言えるが、北ベトナム軍を駆逐し、同地を占領するには至らなかった。
65年10月(続き)
10.22 韓国の最精鋭部隊である「猛虎」師団1万数千がクイニョンに上陸。韓国軍は北ベトナム兵など約4万人を殺害。北ベトナム軍司令官が、韓国軍との戦闘を避けるように通達したという。
10.23 サイゴンの米軍司令部、駐留米兵が15万人に達したと発表。通算の戦死者も1千人に達する。南ベトナム政府軍は70万人に達する。
10.30 解放戦線、タンソニェット基地を襲撃。ガソリン50万リットルが炎上する。
10.30 ワシントンで名誉勲章受賞者5人を先頭に、2万5千人が参加してベトナム戦争支持のデモ行進。
10月 北ベトナムの支援を受けた解放戦線、チュウライで反撃開始。チュライ近郊のビンドン村で、海兵隊駐屯地を奇襲。解放戦線側は250人を殲滅と発表。その後2週間にわたる激戦が展開される。
65年11月
11.02 クエーカー教徒のノーマン・モリソン(31歳)、ペンタゴンの前で焼身自殺。マクナマラは現場を目撃していたという。ロジャー・ラポート(22歳)も国連本部前で焼身自殺。
11.24 ドブルイニン大使、「北爆を3週間停止するなら、ソ連はハノイに影響力を行使する」と発言。
11.25 米空軍前参謀長カーチス・ルメイ将軍、「北べトナムを石器時代に戻してやる」と言明。
11.27 ワシントンで3万5千人がベトナム平和行進。ホワイトハウスを「人間の鎖」で取り囲む。
11.27 解放戦線がメコンデルタのミシュラン・プランテーションを攻撃。南ベトナム軍第7連隊が撃破される。
11.30 マクナマラ国防長官がベトナムを視察。ジョンソン大統領に、今後、毎月千名の犠牲者が出る可能性があると警告。「北ベトナム人は、戦争が長いものであると信じており、時が彼らの味方であると信じており、彼らの持久力が我々より優れていると信じている」と語る。
11月 労働党政治局会議、@戦争のアメリカ化により、解放勢力の政治的優位が明らかになった。A軍事的にも、アメリカ地上戦力の投入にもかかわらず、解放戦線は劣勢に追い込まれてはいない、と評価。「有利なチャンスをつかみ、比較的短期間に決定的な勝利を収める」という「攻勢戦略」の堅持を確認。この路線は12月の労働党中央委員会でも再確認される。
11月 米国政府筋が「北ベトナム軍あるいはヴィエトコンのカンボディア領使用」を非難し、ヴィエトコン捕捉のための「追跡」ないし「自衛のための発砲」を繰り返し示唆する。カンボジアはこの動きに強く抗議する。
65年12月
12.02 原子力空母エンタープライズが第7艦隊に配属され、ベトナム沖に出撃。
12.04 サイゴンの米軍宿舎がゲリラに爆破される。8人が死亡、137人が負傷する。
12.09 解放戦線、クリスマス休戦を発表。
12.09 ニューヨークタイムズ、「広範囲な爆撃にもかかわらず、米国は北ベトナムからの兵士、供給の流れを止めることができていない」と報道。
12.11 北ベトナム、米政府の和平提案を拒否。
12.15 米機、ハイフォン郊外の発電所を爆撃。
12.20 ジョンソン、最高戦略会議を招集。北爆の一時停止と新たな和平提案で合意。
12.20 解放戦線、結成五周年記念日にあたり声明。来春には大勝利を実現させると宣言。
12.21 米軍、「ベトコン地区への枯葉剤散布」を公式に認める。
12.25 二度目の北爆一時停止が発表される。停止期間は1ヶ月あまりにわたる。
12.28 ブルーライト作戦。米第25師団第3旅団が、エアボーンによりプレイクに進出。4月には全師団がプレイクに入る。その後、第25師団は1個旅団を加え、最大規模の師団となる。
12.29 アメリカ、14項目の和平案を提示。これに対しホーチミンは和平4条件をあらためて強調。また米国民への新年メッセージで侵略戦争終結を訴える。
12月 第12回中央執行委員会が開かれる。「軍事・政治闘争に外交闘争を密接に結合させる」新戦略が採択される。
労働党内部では、レズアン第一書記が「限定戦争の中での交渉」という意見、チュオン・チンが「北爆停止と引きかえに、南部の連合政府創設のために交渉」という意見、グエン・チ・タン(南部委員会書記)が「米軍が南部に駐留する限り、交渉は拒否」という強硬路線をとり、紛糾したが、最終的にレズアンの立場が支持されたといわれる。 |
12月 年末までに「第3海兵師団」「第175空挺師団」「第1騎兵師団」「第1歩兵師団」など計184,300名が南ベトナムに配備される。
1965年末での数字: 米軍の「軍事顧問及び地上戦闘部隊」、20万名に達する。南ベトナム政府軍の兵員数は30万名を越える。さらに約2万名の西側援助軍(MAF)も派遣される。これに対し解放戦線は、北から潜入した正規軍兵士3万5千人を加え、近代兵器を装備した正規軍が2.8〜3.4万名、不正規軍が6万〜8万名、総兵員数は15万名に達する。解放戦線は地方の5割近くを何らかの形で支配。 |
http://www10.plala.or.jp/shosuzki/edit/asia/vietnam/vietnam2.htm より転載
■ ベトナム戦争年表(1965年) ■ ベトナム戦争のページより転載
国内学生闘争は・・・
高崎経済大闘争
高崎経済大学(公立)では、1965年9月に、市側が財政難を理由に私学化を提案した。
教授会はこれに反対し、学生も教授会を支持し、私学化は押しとどめられた。
市側は、代わって授業料の大幅値上げを打ち出し、学生は授業料値上げ反対闘争を組んだが、デモ隊を撮影した写真などを根拠に処分者が相次いだ。
これは映画『圧殺の森』に詳しい。
早稲田大学闘争
1961年
早大が80周年事業の一環として第2学生会館建設計画を発表。
1963年
5月 全学共闘会議が結成される。
1965年 2月 第2学生会館が着工。
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10月 管理運営権をめぐり大学と共闘会議が2度の団交を行う。
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29日 全共闘会議で、翌30日の団交が決裂した場合は本部前座り込み、12月9日に全学ストへ突入する方針を決定。
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11月30日 共闘会議が本部前集会を開催。公開質問状に対する大学側の回答を拒否し団交を要求するが、大学側は団交を拒否。
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12月 1日 学生が本部前で座り込みを開始(10日頃まで)。
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8日 大隈小講堂で学館問題説明会(全共闘は団交と規定)が開催。説明会後の18:00すぎ、本部前抗議集会(200人)が行われ、
本部2階の理事室前廊下に座り込み。
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9日 本部前集会(500人)。学生3人がハンストに入る。
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10日12:00 本部前集会(1000人)。
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11日00:30 大学理事3人と学生代表15人の交渉が決裂→学生300人が大衆団交を要求して本部に突入し封鎖する→4:50
大浜総長の要請で機動隊導入。大口昭彦共闘会議議長が逮捕される。
· 20日 大学当局は臨時評議会で授業料値上げを決定。(公表は冬休みに発行された入試要項による)
1966年·
1月5日 共闘会議が、1月20日からの全学ストをめざすをことを決定
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11日 本部前広場でストライキ突入総決起集会が開催。大口昭彦全学共闘会議議長が2000人の学生を前にして、ストライキ突入宣言を発表。(突破者)
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13日 ストの動きに対して早大当局が「告示」を発表、『学費改訂について』という説明書を配布
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14日 一法クラス委員総会が開かれ、執行部からのスト方針を巡り紛糾する
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17日 共闘会議の団交申し入れを当局が正式に拒否する
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18日 第一法学部、教育学部がスト突入。
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19日 教員組合が値上げ反対の声明を出し、同時に学生のストには「遺憾の意」を表明
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20日 第一政経学部、第一商学部、第一文学部がストに突入。第2商学部学生会はスト反対を発表。本部前で集会(2000人)。
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21日 理工学部、第二文学部、第二政経学部がストに突入。早大史上初の全学ストに入った。商学部前で全学集会(学生4000人)。文化連盟が第一学館自主管理宣言。第一商学部有志がスト反対著名を行う。
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22日 本部前集会(3500人)。
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24日 本来なら期末試験開始日であるが、全学で試験ボイコット。5000名が集会とデモに参加。
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29日 延期されていた期末試験を当局は、早稲田実業高校で分離試験として行おうとするが、9000人のデモにより阻止された。
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31日 早実での試験が5000人のデモにより阻止される。
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2月·
3日 12時、本部前で集会(3000人)。滝口理事と大衆団交が行われる。当局は明日4日「説明会」を行うことを発表。
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4日 記念講堂で当局による「説明会」開催。学生1万5000人が参加。総長が「規定方針は全学生の反対があっても貫く」と発言する。1500人の学生が本部前で抗議集会。本部封鎖の方針打ち出す。
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8日 理事4名と共闘会議代表者12名による第1回団交が行われる。
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10日 当局が白紙撤回を拒否して団交は決裂。共闘会議は本部の封鎖に突入した。
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11日 国会稲門会が初会合。
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12日 体育局学生が本部に殴り込み、一時占拠。午後、共闘会議が再封鎖を行う。
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15日 機動隊導入の報に深夜3000人が集合。
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18日 共闘会議が「値上げ撤回のためには入試阻止も辞さず」と言明。
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19日 当局が「妥協案」を提示。本部前で抗議集会が行われ、3000人が参加。
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20日 全共闘は稲門会の調停を拒否、当局は受け入れ。1500人が泊まり込み。
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21日 午前5時30分、機動隊が導入されバリケードが撤去され、学園は閉鎖される。午後3時45分、学生は本部前のバリケードを突破し、本部を再占拠。
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22日 午前7時、機動隊が再度導入され、学生203名が検挙される。機動隊の入試終了までの駐屯が発表され、大学構内は完全に学生の出入りが排除された。早大共闘会議は法政大で集会(以降、共闘会議は法大や明治大などで連日集会を開く。)。
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23日 戸山ハイツで抗議集会後、新大久保までデモが行われる。早大共闘会議が明大と法大に闘争本部を設置。
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24日 箱根山で集会。一政の入試が機動隊の監視下に施行される。
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27日 箱根山で抗議集会後、新大久保から高田馬場までデモ。
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3月
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3日 箱根山で全学抗議集会。
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6日 入試が終了。共闘会議は、大隈講堂前で学園奪還全学集会を開催。
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7日 学園封鎖が解除される(ガードマンは常駐)。本部前で集会、デモ。早大当局は5項目の禁止条項を発表(@屋外集会禁止 A教室無断使用禁止 Bデモ禁止 C机、椅子の持ち出し禁止 D校舎内宿泊禁止)
·
11日 本部前での抗議集会に機動隊が介入し、大口議長らが逮捕される。
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12日 全学4年生集会。一、二法学部長辞任。
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16日 本部前で抗議集会。教育学部説得会(ボイコット)
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21日 大隈講堂前で抗議集会。商学部説明会。
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22日 全学共闘会議。法、文の教授会が学部別卒業式の中止を決定。
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23日 一政が学部別卒業式の中止を決定。
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25日 統一総括卒業式が記念講堂で学生のみ2000人で開かれる。商学部は学部別卒業式を開く。
·
26日 各学部が期末試験の日程を発表。
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29日 一政で、再びバリケードが築かれる。
·
30日 夜、一商前で、教授・右翼学生による逆ピケが行われる。
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31日 法、商、理工もバリケードを再構築する。
·
4月
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1日 全学で再度、試験ボイコットが行われる。
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2日 試験ボイコット
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3日 体育局が試験を中止。教育学部でバリケードが築かれる。ストに再突入。
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4日 試験ボイコットが続く。この頃から「有志会」によるスト中止の運動が急速に強まる。
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6日 一文で学部当局との公開質問討論集会。
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7日 一文シンポジュウムが開催(一文自治会と統一スト実が主催)
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8日 理工で学生大会(3000人)開催。
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12日 二文で学部当局との公開質問討論集会。
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13日 理工学生大会が開催されスト中止決定の方針が採決される。一商でバリケードで解かれる。
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14日 理工でバリケードが解かれる。
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15日 理工で三年の試験が始まる。
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16日 共闘会議の代表者団交要求を当局は拒否。
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17日 教育学部で学部長指導のもと、ガードマン・右翼学生・体育局学生・OBによるスト破りが行われる。
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18日 全学試験ボイコットが行われる(一商と理工を除く)
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19日 一政3年の保全高校での学外試験を阻止。機動隊が出動する(封鎖解除後4度目)。
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21日 教育3年が早実で分離試験。学生7人に逮捕状が出される。
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23日 大浜総長と全理事が辞意を表明。
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24日 教育3年の分離試験が終了。全理事が辞表を提出。
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28日 全都早大支援集会(5000人)が開かれる。
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30日 商学部がストに再突入する。一文・二文の両学部長が辞任する。
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5月
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1日 入学式。共闘会議は記念講堂前で抗議集会を行う。
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2日 一法、二政3年が分離試験。
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6日 学部長会議で「事態処理委員会」設置が決定される。
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7日 共闘会議が、大衆団交要求本部前抗議集会を開く。
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10日 阿部総長代行が就任する。阿部総長は「話し合い路線を打ち出すが、団交は拒否。」
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12日 一政学部長が辞任する。
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13日 新理事が就任する。
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16日 学部長会議は「事態処理委員会」の廃止を決定する。
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17日 商学部で説明会が開かれ、阿部総長が出席する。
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18日 一法で、自主高座が開かれる。
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21日 一文3年生集会が開かれ、23日からの試験ボイコットが決定する。商学部では、学部投票でスト中止を決定。
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23日 商学部で授業が開始される。
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27日 一法で総長が会見を開く。
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6月
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2日 一政学生大会が開かれ、学部投票でスト継続か否かを問うことが決定される。
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3日 一文学生大会が(4日まで)開かれ、有志会のスト中止提案が否決され、執行部のスト継続方針が可決される。
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4日 一政学部投票でスト中止が決定。
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5日 一政で試験が開始。二文で(7日まで)学部投票。
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8日 二文で旧1、2年生の試験が開始される。
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10日 二文で旧3年生の授業が再開。
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11日 一法委員総会。教育で学生大会。
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13日 当局が今後の日程を発表。早稲田祭の日程が組み込まれていなかったため波紋を呼んだ。
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14日 教育で、学部投票によりスト中止が決定。
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15日 教育でバリケードが撤去。
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18日 一文学生大会が開かれ、学部投票を決定。
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20日 一文学部投票。一法がストを解除。
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21日 一文でスト中止を決定。
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22日 一文のバリケード撤去。のち学内デモに200人が参加。
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17日 阿部総長代行が正式に就任。
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26日 学生会館の管理運営権をめざして共闘会議が再編成される。
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10月5日 早大闘争での学生13人対する第1回公判が、機動隊導入で流れる。
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11月5日 早大闘争第1回公判が開かれ、検事側の起訴状が朗読される。
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12月7日 早大闘争第2回公判が開かれ、被告人陳述が行われる。
1967年以降
· 1969年 4月 本部と第2学生会館を学生が占拠
· 10月 機動隊を導入して、占拠を強制解除 以後第2学生会館は閉鎖
· 1972年 第3次早大闘争
· 1980年 第2学生会館が部分的に利用再開。
· 1990年 第2学生会館の利用開始。
· 2002年 第1、第2学生会館の解体開始。
参考文献 『早稲田をゆるがした150日』 現代書房、1966年12月
『神宮に大旗かざして』 投稿日:2009年10月10日(土)
私が高一の頃だったか。
神宮で日大ー亜細亜戦があり試合終了後の日大の校歌エール交換中に亜細亜の応援団が
先輩を見送るため突然日大側に「背」を向けたため日大応援団が激怒。
その後日大が亜細亜応援団に殴りこみをかけた為双方に怪我人がでた。
東都連盟はこの件を問題視して今後両校の神宮での出入りを禁止。
当時の応援団は一般人はそばに近ずけない雰囲気もあり特に日大は団幹部は外車で
神宮に乗り込むような時代ではあった。
しかし試合時は今の応援とは違い各校校旗をかざしてチアもいない「男の世界」。
中央、日本、駒沢戦のここ一番では1万以上の学生が集まり熱い時代でした。
専修応援団はそのなかでも統制のとれた応援と華麗な演舞で正統派応援団だった。
(乾杯のエールで大学日本一になりNHKにもその華麗なエールを披露した。)
いまの応援団は5、6人の所帯ながらしっかりと伝統を継承していており立派。
大学側も彼達の活動をしっかり応援して貰いたい。
日大応援団問題
世情が日韓問題に、そしてベトナムではB52が、無差別爆撃で大量殺戮を繰り返している。
日本国内では、高経大・早稲田闘争にと、めまぐるしい政治と、内外の激動の季節を迎えていた中で、私立大学の一角では、バンカラを標榜する応援団学生による暴力騒ぎが流行していた。
これをなんといってよいのか、私たちには昔も今も理解ができない・・・
特に当時はこの年に、政治の季節と、早稲田大学、高崎経済大学での学生闘争が起こったこと、この二つの高まりの中で、なぜ、日大や亜細亜大学の二つの大学の応援団学生が他大学応援団に一方的に暴力行為を仕掛けたのか?
上の「神宮に大旗かざして」の投稿者が指摘するように、特別に「日大の応援団」はひどかった。
いずれも日大応援団が一方的な暴力の加害者だったからだ。
これらの事件はしばしば新聞紙上を騒がした事件であった。
新聞による報道では日大応援団は他の応援団と違い「棒切れなどの武器を使って他大学応援団を襲撃した」とある。
控えめに記述してある下記の「審判団のホームページ」に記載されている記事の中でも、そのことには触れられている。
当時、日大では一人の学生も学生運動に参加しない大学として、それを売りにして、学生を集めるという総合大学への道の途上にあった。
学内にない交ぜになっていた矛盾が、この応援団問題をきっかけに火を噴き、従来のおとなしい学生会が、俄然、学生自治会的な色彩を帯びて、闘う学生会へと脱皮変身していった。
この経過は次項、1966年のページを参照されたい。
日大応援団のやんちゃはまだまだ続く・・・
昭和41年4月26日・東都大学野球春季リーグ、日本大学対亜細亜大学2回戦
≪日大―亜細亜大の応援団がヤジをめぐって乱闘≫
8回表、日大の攻撃で三塁側の日大ブラスバンドが吹奏を始めたところ、一塁側の亜細亜大応援団からヤジを飛ばしたらしく、日大応援団の関口渉外部長ら約10人の団員が亜細亜大応援団席にかけつけ、「ブラスバンドの吹奏中にヤジを飛ばすとはけしからん」と注意した。
これを見た亜細亜大応援団員の一人が、日大応援団員が通路階段から入ってくるのを止めようとして、逆に日大側の一人にいきなり突き飛ばされた。
これがきっかけとなって両校応援団員約20人が入乱れて応援団席で殴り合い、一人がけがをした
日大―亜大3回戦は延期となり、両校は春季リーグの残り試合を出場辞退し、秋のリーグは2部に転落することになった。
これまでの応援団事件での辞退は、昭和38年6月、関西六大学の1部・2部の入替え戦、龍谷大―大阪商大戦で竜谷大応援団の暴行があり、龍谷大が出場を辞退した。
昭和45年9月23日・東都大学野球秋季リーグ、日大対中大1回戦(神宮球場)
≪日大応援部員が乱暴・中大生を取り囲み・・・野球に負けた腹いせ≫
神宮球場前路上で日大応援部員約20人が、中大応援団団員5人に棒切れなどで暴行。
このため中大応援団の大槻一郎君(20)が頭や顔に1週間のけが。他の4人も打撲傷などで5日から1週間のけがをした。
乱暴したのは日大応援部の下級生で、この日神宮球場で行われた東都大学野球リーグ戦で、日大が中大に負けたため、ささいなことで腹を立てての行為とみられている。
日大生20人はいずれもパトカー到着前に姿をくらましたが、同署では春に次ぐ同リーグ応援団暴力事件を重視。暴力行為と傷害事件として徹底的に調べると話している。
≪大学野球関係のトラブルの記録≫ *
昭和30年10月14日・東京六大学野球、明大対立大1回戦(神宮球場) *
昭和31年4月15日・東京六大学野球春季リーグ・慶大対法大2回戦(神宮球場) このとき慶大ベンチから稲葉監督と選手たちが捕手の落球でセーフだと抗議し、相田主審は三塁の真田塁審に意見を求めたところ、真田塁審は落球を認めたので、相田主審は判定を覆してセーフと宣告し直した。 これに対して法大は、長谷川監督、岡崎投手らが抗議したが、受け入れられなかった。 *
昭和33年5月18日・東都大学春季2部リーグ、青山学院対成蹊大1回戦 清水主将はボークではないという説明を求めようとしたが、球審が全然受け付けなかったので、一塁の毛利塁審が説明をし、清水主将はやっと引き下がった。 *
昭和38年9月15日・東京六大学野球秋季リーグ、明大対立大2回戦(神宮球場) この事故を住友の故意と見たのか、住友とは浪商時代の同級生である立大前田一塁手がベンチから出てきて、「間に合うのだから乱暴はするな」と文句をつけた。 *
昭和41年4月26日・東都大学野球春季リーグ、日本大学対亜細亜大学2回戦 これを見た亜細亜大応援団員の一人が、日大応援団員が通路階段から入ってくるのを止めようとして、逆に日大側の一人にいきなり突き飛ばされた。 日大―亜大3回戦は延期となり、両校は春季リーグの残り試合を出場辞退し、秋のリーグは2部に転落することになった。 *
昭和45年5月22日・東都大学野球春季リーグ、芝浦工業大対亜細亜大(神宮球場) ところが試合が終わると、勝った芝工大側は正規の応援団がないため、学生たちが喜びのあまり校歌を歌い始めた。怒った亜大応援団が殴り込みをかけたらしい。 *
昭和45年9月23日・東都大学野球秋季リーグ、日大対中大1回戦(神宮球場) 乱暴したのは日大応援部の下級生で、この日神宮球場で行われた東都大学野球リーグ戦で、日大が中大に負けたため、ささいなことで腹を立てての行為とみられている。 *
昭和46年4月10日付け新聞報道 日本学生野球協会審査室は4月23日、春季リーグ戦終了まで一切の試合を禁止する処分を下した。 *
昭和47年10月15日・東京六大学野球秋季リーグ、早大対明大2回戦(神宮球場) その左手に併殺を狙った遊撃手の送球が当たり、球が大きくそれる間に三塁から清水がかえり同点、打った西村も二進した。 *
昭和50年9月7日・東京六大学野球秋季リーグ2回戦、明大対東大(神宮球場) おまけにこの判定が勝負を大きく左右したとあって、試合が終わった後も勝利に大騒ぎの東大ベンチとは対照的に、「あんな判定は、はじめて、けしからん」と明大・島岡監督は顔を真っ赤にして激昂。 5回、東大の攻撃は1死一塁で打者は渋沢。その三球目、明大の投手石田が一塁に牽制球を投げた。捕球した一塁手の伊藤が走者の富田にタッグ。このとき、一塁塁審の西大立目氏(早大OB)は、伊藤一塁手が右足で富田が滑り込もうとする一塁ベースの内側をブロックしたとして、野球規則「7・06」によって富田を二進させた。この富田、渋沢の一塁ゴロで三進したあと、伊藤の遊撃右への内野安打で同点の本塁を踏んだ。 明大島岡監督の言い分は「23年間監督をやってきたが、あんなことで走塁妨害をとられたのは初めて、いや、プロも含めて日本中でも初めてだろう」とまくしたてた。 *
平成5年4月21日・東京六大学野球応援団員暴行事件 これに対し、法大応援団員は「だらしがない。他校が旗を掲揚しているのに失礼だ」と激怒。その場で校旗を持っていた早大部員を殴り付けた。 さらに事件の2日後に応援団の部室がある同大富士見キャンパスに旗手を含む早大応援団員3人を呼び付け、旗手に対してはその場でハサミを入れ、頭を丸めさせた。さらに先月25日に行われた、法大対慶大戦でも暴行事件を起こした。 試合前に行われるエール交換の際、法大応援団員は「慶応の旗が小さい。失礼だ」などと因縁をつけ、慶大応援席近くで慶大応援指導部員2人を殴り付けた。 *
平成5年5月15日・東京六大学春季リーグ戦、明大対慶大1回戦(神宮球場) ボールは二塁に転送された直後に、佐藤塁審が間違ってフォースアウトを宣告。これに長沢球審が気を取られ、続く本塁のクロスプレーを見逃すミスが重なってしまった。 *
平成5年5月22日・東京六大学野球春季リーグ戦、明大対法大1回戦(神宮球場) 左太ももを強打した菊池は転倒。起き上がるやベンチへ戻ろうとする鳥越に掴みかかる勢いで激怒した。 *
平成8年10月14日・東京六大学野球秋季リーグ、明大対立大4回戦(神宮球場) 両軍ベンチから全選手が入乱れて激しいもみ合い。その際、ベースカバーに入った立大樋渡に対し、明大の選手数人が殴る蹴るの暴行を加えた。息ができず動けなくなった同選手は近くの病院へ運ばれ、右側胸部挫傷で約2週間の加療を要すると診断された。 過去に例を見ない騒動に、スタンドからファンのバ声が飛び交い、ついにはパトカーまで出動する事態に学生野球の聖地・神宮は異様な空気に包まれた。 負傷者まで出した今回の事件を重く見た東京六大学野球連盟は、翌15日、連盟事務所で緊急理事会を招集。明大側の申し出を受理する形で、暴力行為に及んだ5選手、荒井監督の今季残り試合の謹慎、並びに山口部長、別府総監督の辞任という六大学では前例のない重い処分を下した。 |
首都圏野球審判協会MBUA HPより転載 (2010年6月15日) |
ついに日大の学生は怒った!!
1966年(S41年)12月13日
日大の学内では、一連の応援団の暴力事件に学生が怒り、経済学部学生会では学生の委員会
総会で応援団の解散を決議し、一般学生多数の立会いの下に応援団の部室を没収した。
と、同時に日大本部応援団の活動も禁止し、日大本部応援団の解散も要求した。
その後、1968年になって日大闘争が勃発した際、生き残った応援団、体連、右翼を日大本部
理事会が組織動員して、学生側に対し、すさまじい殺人的な暴力で弾圧したため(1968年6・11
事件)、政府機関から日大は「応援団他体育系学生を弾圧に使ってはならない」と異例の警告
を受け、以後、日大応援団は消滅し、現在に至っても存在しない。
「日大では、このような暴力を日常的になす応援団は今後、けしてできないだろう。」
というのが、日大学部当局、および学生、OBの一致した見方である。
「日大には今後も「応援団」なるものを絶対に作ってはならないのです。」
第二部
1966年日大文理学部数学科事件
<巻頭言> 我々が日頃、日大校舎に学んでいて誰もが感じ取っている最大の問題は、マスプロ教育による弊害が顕著な姿で現れていることである。 |
日大数学科教官退職事件
若代直哉(東大大学院生) 東大新聞39・5・20付
突然四名の辞職を強要
これからのベようとすることは、昭和37年秋から私立大学の一角、即ち、日本大学文理学部数学科において起っている事件である。
従って、一応私は部外者である。
しかしこの事件を知って、私にはそれがただ日大だけの問題ではないような気がするのだ。
この事件が日大数学科だけの間題として片付はられない問錦であるということは、以下の文章から判断してもらえるものと考える。
恐らくこの事件はまだ殆んどの人に知られてもいないだろう。
だから、この事件の、表面を追ってゆくことから始めたい。
それは昭和36年であった。
池田正之輔(日大出)が科学技術庁長官の時、私学増設に関する規定が緩和され、学科増設が容易になった。
そこで各大学で学科増設が行なわれたが、日大文理学郊でも理学系の学科が増設され、36年7月に学生を募集して夏休みに講義が行なわれる予定になった。
しかしながら設備の拡充、教授陣の増強等がほとんど行なわれないこの学科増設に対して、当然のことながら、教授・学生が反対したことに始まる。
そして特に数学科の反対が強かったのであろう。
真の学生募集は新設の応用数学科だけは中止された。
どうやらこれが亊件の序曲であるらしい。
明けて翌37年の秋、突如として数学科の助教授、講師4名が38年3月末までに辞職することを強要された。
その理由は「日大の思想に合わぬ」ということ、そして、日大には組合もなく抗議行動ないしは闘争を支える基盤が全くないというのが実状であるという。
従って仮に裁判に訴えるとすれば、民事裁判しかないそうだ。
他の職を持たずその間食いつないで行かねばならない者にとって、それがどんなに大変なことであるかは想像がつく。
だから直ちに他所に職をみつけるか、さもなければ、自らの思想をすてて、大学の経営方針に追従して首をつないでもらうしかないといえよう。
何かしら割り切れたい気がするが、だから不当な辞職要求に対して闘争らしい闘争が起っていないのかも知れぬ。
もちろん学生達も抗議した。釈明を求めた学生達に対して学部長は次のようにいったそうだ。
「教師を養成すれば足りる」
「やめられた先生は移度の高過ぎる講義をしていた」
そして挙句のはてに、「気に入らない者は退学せよ」「ストライキでも何でもやってみろ」という放言。
その結果が直接講義に影響するということを理解するのにわれわれは苦しまないだろう。
集中講義に来たある講師は「一年間やってもわからない講義を2・3回の講義でわかるはずがありませんよ」といって漫談まがいの話しをして帰ったとか。
またある講師は、「葉書でも何でもいいから講義してくれといわれたのですが・・・・・・・・」という始末。
ここで、選抜試験に関する総務部長の話をとり上げてみる。
「本学では教職員が自主的に組合を作ったり、学生が全学連に加盟したり、学生運動に走ったリすることは好ましくないと考えている。そういう考えをもっている人は本学に向かないものと考えてもらいたい」
「安保騒動のときも本学の学生は中立の態度をとり、これに参加しなかった。これは世間からも大いに称賛されたことである」
これは学生に対する方針であるが、この中の「教職員が自主的に組合を作ったり・・・」という文句が4人の助教授、講師の退職と関係がありそうだ。
設備の抗充及び教授陣の増強を伴なわない学科の増設に対する反対は文字通り教職員の自主的な行動であるからだ。
ついでに日大では一般の私立大学のように教授会対理事会という形で教育方針と経営方針とが対立するようなことはその出発点から存在していないという。
このことは、組合がないということによって実証されよう。
そして日経連の一理事は日大を評価して語る。
「日大は理工系の比重が高いということもあるが、建学精神が一貫している点を高く評価したい。」
日経連の云う一貫した建学精神なる抽象的な言葉は学部長の「教師を養成すれず足りる」という放言として現象しているのだ。
先ず第一に、日大ではその経営方針に対する批判は抹殺さわるということ。従って第二に、学問の自由、思想の自由は大学の経営方針の前では全く無力であるということ、は三に、教職員は大学経営方針に盲従する限りにおいてのみ身分の保障がなされるということ。
最後に、最も重要な事だが、このような建学精神なるものを持つ日大が日経連に高く評価され、それ故に巨大な大学ととて現代社会の大きな部分を占めているということ。
今、学問、思想がその本拠たるべき大学でまたしても踏みにじられた。
しかしながら、私はこの学問、思想の自由を振りかざそうとは思わない。
なぜなら、敢えて云おう。この抽象的た理念は字義通り「抽象的理念」としてしか存在しないのが現実だからだ。
日大が行なった学問と思想の自由に対するじゅうりんに対してどこから反旗が翻ったか?遥か彼方へ消え去ったにも等しい理念をそのまま現実の大学に適応して考えようとすることは私にとっては余りにもたいくつなことなのだ。 私立大学は「経営体」として存在し、国立大学には一昨年仕掛けられた大学管理に関する文部省の意向が、法案は葬りさられたとしても既に事実として浸入しているのではないかと云ったら云いすぎだろうか?
そして巨大なる経営体日大にはもともと学問・思想の自由など問題ではないのである。
公然と教職員と学生の自主的行動が禁止されているではないか。
公然と「気に入らない者は退学しろ」という放言が通用しているではないか。
これは学問・思想の自由ではなくして「経営体」が自己を維持、拡大してゆくための自由である。
従って学問、思想の自由を抹殺するための自由なのだ。
日大の巨大さを示すために数字を掲げる必要はあるまい。
一つだけあげておこう。
巨大なる経営体「日大」の傘下にある人数がざっと十万強。
これに家族等を加えると更に何倍かになる。
もともと日大は現在程巨大な大学ではなかった。
それは学生数の増加をみてもわかる。
二十五年の二万五千、三十年の三万三千、三十八年の五万六千、つまり、日本経済の高度成長と歩調を合わせて、特に最近急激に成長(?)していると云えよう。何故それ程日大は巨大になってゆくのか?
それは先に記した日大の方針、つまり「本学では教職員が自主的に組合いを作つたり、学生が全学連に加盟したり、学生運動に走つたりすることを好ましくないと考える」ということとそれが日経連理事に高く評価されているという事実から理解しえるであろう。
企業から愛される大学、それが日大の内容である。
その姿はひたすら拡大に邁進する経営体である。
その方法は、経営方針に背くものの無条件の排斥である。
ある人は云うかも知れぬ。
「日大だから起ったことだ」と。
確かにそう云うことは出来よう。
又、ある人ば云うだろう。
「他大学の事には干渉できない」と。もっともな話である。
だがそれ故にこそ日大は巨大になり得たのである。
一度巨大なった時には、それは単に大きいという限りの意味をもつだげではない。
当然のことだが、重要なことは文字通り巨大さが巨大な社会的な力として存在することだ。」
試みに資料ぱ古いが文部省の私学補助金に占める日大の比率の増加振りを見てみよう。
三十二年六・四七%三十三年九.三六%三十四年十一ニニ六弗。ことから、経営体としての自由を駆使し、公然と学問・思想の自由を抹殺する大学が、国家予算の益々増大する部分を得てゆくどいう明らかに矛盾が事実として存在しているということができる。
そして、日大卒の比率が全体の六%を占めるに至っつているとか。
従つて、この間題は断じて日大だけの問題ではない。
この間題が日大だけの間題として闇の中に葬り去られる時、恐らく、いや確実にだ、やがて日大は怪物として我々の前に立ち現われるだろう。 続く
(東大大学院、経済学科農業経済学専門課程、修士一年)
詳しくは https://keitoui.web.fc2.com/suugakukajikenn1.htm をご参照下さい。
上記は1965年日大経・短学部学生会(内田委員長)が発行した日大文理学部数学科事件の小冊子である。
発行は経済学部学生会執行部、協力は学生会連合会である。
文理学部では65年に起こったこの闘争は教員の強制退職と、学生の処分により終息した。
この冊子は経済学部(日大経短学部)学生会により、学生委員に配布された。
だが、この討議資料が配布されたときには、事件はすでに終わっていたため、闇から闇へと葬り去られ、やがて忘れられていった。
だが、彼ら当事者はあきらめずにこの事実を次の世代へと継承すべく行動していた。
今だから言うことができるが、1968年日大闘争の決起前、私たち経済学部の「学生会執行部と協力者たち」は、彼ら「数学科事件関係者のOBたち」と連絡を取っていた。
彼らは、けして表に出ることはなく私たちの支えになってくれた。
彼らの知識と経験は日大闘争へと確実に受け継がれたのです。
その後、彼らは、日大闘争の中でマスコミへの対処と、学生の保護救援を受け持ってくれた。
後の「日大闘争救援会」として活動した者たちが彼らである。
2014年の今、彼らの行動を賞賛し、ここに顕彰するものです。
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