日大闘争by日大全共闘 日大全共斗経斗委HP
ホームページへ 戻る 日大闘争1967年へ
日大闘争ドキュメント 前史1966年
[主な項目] 日大闘争元年(日大学生自治権奪還闘争)
1966年度学生会(古賀)執行部の成立 経済学部三崎際「芝進闘争」
日大闘争のあけぼの、
それは彗星の輝きのようにやってきた
彗星にたとえて言うならば、
遠方に確かに存在し急速に近づいてはいるが
一般人には見えない事象、
それが夜空に光り輝く天体として認識されたとき、
人々は大いに驚いた。
1966年という年は、
日大自治権奪還闘争、
ひいては日大闘争の大爆発の歴史
においてそのような黎明の年であったといえよう。
学生会旗 |
日本大学自治元年
1966年は、日大自治権奪還闘争の「紀元元年の季節」であった。 日大闘争の起点はここにあった!! |
始まりの時
1966年度学生会(古賀)執行部成立
それは、1965年12月11日のことであった。
日大経済学部で1966年度経済学部学生会執行部が選出された。
日大闘争の起点とも言うべきこの日は、一般学生のあずかり知らぬ間に行われた毎年の恒例行事のひとつであった。
一般学生から見れば、過去の執行部と違う点は見られない。
日大の場合、他大学のような学生の「自治会」は認められなかった。
「学生会」という名称のいわば御用組織として研究会、同好会、クラスを統治する大学の下部組織の一端を担う存在であった。
そのため、大学自らが学生会費を学部学生全員から授業料+学生会費として徴収して、学生会に与えるという構造であった。
また、各ゼミナールに関しては、経済学部ゼミ連合会という別組織が一元統括していた。
これも日大御用組織であった。
経済学部ゼミ連はオール日大ゼミ連合会の一部であり、日大本部の直接の統括下にあった。
また、文化団体連合会というオール日大組織があったが、これも日大本部内にあり、完全に御用組織であった。
文化部研究会を統括していた。雄弁会、吹奏楽団、合唱団、そして後に創立される管弦楽団(翌1967年創立)などである。
経済学部学生会執行部も、オール日大の学生会連合会という本部直轄の学連によって統括されているはずであったが、なぜか、両者は関係が微妙で、連合会派遣委員を数名任命していたが形式だけのものであった。
両者は当時から必ずしも折り合いが良いとはいえなかった。
学生会連合会からは、学部学生会に対して、しばしば指導の名目で奥山委員長自らがやってきていた。
ということは当時から学生会連合会=日大本部から見れば、経済学生会はイエローカードだったようだ。
それがレッドカードに変わるのはその後、秋の大学祭前後からだった。
学部学生にとって、この学生会執行部が俄然、彗星のごとく光り輝き始めたのは、経済学部の「三崎際」の準備過程でのことであった。
「マスプロ教育の弊害の打破、大学自治と学問思想の自由の獲得」
このスローガンに基づいて、学生自らが大学祭メイン講師を選び、大学の自治・学問の自由について外部の高名な学者に講演を依頼したのだ。
それが法政大学の芝田進午教授であった。
学部側は学生側のこの申し出に対して、学生課橋本課長を通じて、即座に拒絶の回答をした。 左寄りのこの他大学の教授を呼ぶならば、三崎際は開催させない、中止である、と…。 学生側は色めきたった。 |
これが1966年度古賀執行部の初めての、そして最大の闘いとなった。
それ以後連綿と前進、後退を続け、ついに日大闘争として決起大爆発する端緒となった最初の闘いとなったのだった。
後に言われる「血みどろの3年間」の日大闘争の歴史の始めの一年目である。
以上が普通の一般学生から見た日大経済学部1966年の概要である。
つい最近(2014年)に判明した当事者の証言と当時の資料を参考に事実の詳細を組み立ててみよう。
1966年度学生会の構成
古賀執行部メンバー 1966年度 | |
昭和41年度経短学生会新執行部 委員長 古賀義弘(経四) 副委員長 真関嘉之(経四) 事務局長 浅本泰(産四) 財務局長 笹岡弘虎(経四) 情宣部長 鹿島陽一郎(経四) 編集部長 加藤勝(経四) 研究調査部長 岡本幸夫(経三) 短大担当部長 大久保葵(短二) 厚生部長 小林洋司(経四) 学術部長 山本建一(産三) 文化部長 坂本中保(経四) |
体育部長 渡辺和夫(経四) 庶務部長 沢谷衛彰(経三) 渉外部長 内田捷四郎(経四) 女子部長 野村絹子(短二) 連合会 佐々木良男(経四) 田辺英夫(産四) 後藤健太郎(産三) 無任所 湊勝治(経四) 藤森勉(産三) 薄田勝也(経三) |
昭和41年度(1966年度)経短学生会基本方針(案) | ||
[基本方針] | ||
2.マスプロ教育弊害の打破
一、クラス・サークルの充実 二、教育の質的向上 学生の主体的研究の推進 休講撤廃 クラスサークルの討論の充実 授業内容の向上 教授の質および 学生の自治意識の向上 |
1.大学の自治と学問の自由の獲得
三、私学経営と教育の矛盾の止揚 四、勉学環境の改善」」 短大問題の解消 厚生施設の充実 授業料値上げ反対
|
学生の自治意識の向上
1966年3月25日
午前8時から理科系、11時から文科系が行われた。
以下、学生会新聞の記事によると
卒業式
さる3月25日、わが大学では、2回に分けて、両国講堂にて卒業式が行われた。
午前8時から理科系、11時から文科系という順で、スピード卒業式であった。
今年の卒業生総数は、一万五千名にのぼり、わが校友は二十二万五千人という。
まさにマンモスである。
※注:昭和41年4月21日発行日大学生会新聞記事より・・・
1966年4月21日 新入生移行生歓迎大会
期日 4月21日 午後X時 (※注:印刷のズレで読み取れず)
133番講堂
映画と講演
「日本列島」
主演 宇野重吉
芦川いずみ
講演者 日本列島監督
熊井啓氏
学生会機関紙「建学の基」
1966年4月21日付け発行 「建学の基」第1ページ 委員長挨拶 |
1966年5月21日
学生会代議員大会議事録
写真をクリックすると大きくなります
見本2ページ分です。 |
経済学部芝進闘争(しばしんとうそう)
1966年度経・短学部学生会(古賀)執行部の闘い
三崎祭 柴田進午講演会不許可中止事件
「芝進,自治権獲得」,この二文字を必ず掲げて当局に抗議しよう。
全研究会の全展示に写真の抗議の看板が掲げられました。
例外なしにです。一部、二部の参加団体全部がこの抗議の意思表示に参加しました。
写真の「経二会」というのは,執行部によって新たに組織された新入生による学生委員の組織です。
当時、学部の2年生は15クラスあったので15人の委員による組織でした。竹林君が委員長を勤めていました。
1966年連続する応援団による暴行事件が頻発。マスコミを賑わせる。日大というのはよくよく世間を騒がせる大学である。
日大当局による見せかけの「応援団解散命令」で世間の批判をかわす。が、学内では解散した筈の応援団が大威張りでかっぽしている。
これら一連の日大応援団による他校学生への頻発する暴力事件が、日大学内における過去の数々の応援団他の体連による学生暴力支配への不満となって、その後の学生総意による応援団解散決議となるのである。
事件のすべてはそこから始まった。
弾圧は応援団を中心とする体育会の連合形成=日大体連により組織的に行われた。
それらの指揮系統は、日大本部権力=古田理事会より直接に出されていた。(日大本部学生対策資料参照)
ホームページへ 戻る 日大闘争1967年へ © 2004 けいとうい